『知床旅情』のルーツは羅臼!(その2)

森繁さんが元歌を作り、加藤登紀子さんが歌って知床ブームを生んだ『知床旅情』。 その誕生にまつわる話のパート2です。

昭和35年の知床半島はまさに地の涯だった!

話は少し脱線しますが、状況を正確に把握するためにも当時(森繁さんの主演の映画『地の涯に生きるもの』のロケは昭和35年)の知床半島の交通状況を解説しましょう。
 
ウトロと羅臼を結び、知床連山を越える知床横断道路の着工は昭和38年(開通はずっと後の昭和55年)、知床観光汽船がウトロ~羅臼間に就航するのも昭和37年のこと。知床岬に灯台ができるのは昭和38年、国立公園に指定されるのも昭和39年のこと。
つまり、森繁久彌主演、久松静児監督の映画『地の涯に生きるもの』のロケが行なわれた昭和35年3月〜7月は、まさに知床は秘境中の秘境、国道もクネクネのダート。しかもウトロと羅臼を結ぶ観光船もありませんでした。
 
「冬場になると道路が普通になって船で町まで出たことがある」なんて昔話もよく耳にします。
峠の東(羅臼)と西(ウトロ)では、気候も風土も大きく違う土地柄。結ばれる交通もありません。撮影も大変だったことでしょう。羅臼町(当時は羅臼村)では、200人もの村人がエキストラとして動員されています。
羅臼は今でも「魚の城下町」を自負する漁師町です。映画のロケ当時といえば漁師以外は公務員か一部の商店かという状況。しかもロケの前年4月には羅臼沖で、天候急変の突風のため15隻の漁船が次々と波間に沈み、89人が命を失う遭難事故が起こりました。
 
その遭難事件も映画には織り込まれ、森繁さん演じる彦市老人は港で「国後丸の謙三はおらんけ。けんぞおー」と泣き叫ぶのです。
エキストラの中には本当の遭難者の遺族もいたました。
「撮影が終わっても、泣き声がやまない。みんなが家族同然で、監督もカメラマンも、もらい泣きした」(ロケ当時の羅臼村財政係長・志賀謙治さん)。 森繁さんも撮影途中に「映画や芝居で涙は流すが、今回ばかりは心底泣かされた」と語ったそうです。
 

森繁さんの感動が『さらばラウスよ』を生んだ

昭和35年7月にロケは羅臼で終了します。
森繁さんは町を出発する日の朝、『さらばラウスよ』という歌の歌詞を当時滞在していた栄屋旅館(現在のホテル栄屋)の前に張り出し、ギターを手にしてこう語ります。
「日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう」
 
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当時を知る栄屋の関係者は、
「突然、起こされて、集合を掛けられて・・」と苦笑します。
森繁さんは、小節ごとに繰り返して教え、やがて歌声は村人、ロケ隊全員の大合唱となったのだとか。
その場に居合わせ、その時のことを今も克明に記憶するというマスコミ関係者・中村貞雄さん(東京在住のテレビマン・当時は札幌のテレビ局員)は、「森繁さんは『お世話になった皆さん(羅臼の人々)の後々のために歌を作りました』とキッパリといいました。これは羅臼の人との約束なんです。それを考えるとウトロに歌碑があるのはいかがなものかと・・・」と顔をしかめます。

羅臼港に近い「しおかぜ公園」には『オホーツク老人の像』が立っていますが、森繁久弥演じる「彦市老人」をモチーフにした像ですから、まさに森繁さんです。その横には『知床旅情』の歌詞が森繁さん自身の筆で彫られています。
 
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『オホーツク老人の像』の前に立つ、TBS『小沢昭一の小沢昭一的こころ』の坂本正勝プロデューサー。駆け出しの頃、坂本さんは森繁さんの番組を担当していたのだとか

 

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